いよいよ、インスタントラーメン市場に刺激を与え、のちに袋めんと2大ジャンルを形成することになる「カップめん」の登場です。
1970(昭和45)年は、大阪で国際万国博覧会が開かれ、国民総生産(GNP)が西ドイツを抜いて世界第2位(1968年)となるなど、主食への出費が減り、嗜好品費と外食費の割合が増え始めます。
顕著に伸びたのは洋風スナック菓子。そしてコーヒー、ジュース、コーラの需要が増えました。
一方、インスタントラーメンは生産量36億食、前年対比102.9%と伸び率が停滞しました。市場飽和となっていたのです。しかも、1世帯当たりの購入数量が初めてダウンしてしまいます。前年10月に起きたチクロショックで加工食品全般が敬遠されたことや、希望小売価格の値上げが原因として考えられました。
カップめんは、その変化によく対応した商品だったということができます。「カップヌードル」の登場は、マクドナルド1号店が銀座にオープンしたのと同じ年のできごとです。そしてカップめんの成功は、「カップしるこ」、「カップコーヒー」などの登場に見られるように、インスタントラーメン以外の食品にも影響を与えました。
1972(昭和47)年の秋から、日本の経済は深刻なインフレに陥りました。ドルの信頼が低下し、世界経済そのものが変動を始めていたのです。世界規模で進行していたインフレの上に、日本は貿易収支の黒字増大や列島改造推進、金融の大幅緩和が重なり過剰流動性が表面化し、さらに不動産投機、買い占め、価格のつり上げが蔓延。大手商社が世間の批判を浴びていました。
1973(昭和48)年7月、政府は生活関連物資の買い占めと売り惜しみに対して、緊急措置法(投機防止法)を発しました。インフレの影響はインスタントラーメンにも及びます。
まず原材料価格が跳ね上がり、大きなコストアップとなりました。そして同じ年の10月、第4次中東戦争が勃発します。エクソン、シェルなどのメジャーによる原油価格の30%値上げと10%の供給削減通告が、第1次石油ショックを生じさせたのでした。すぐに諸物価が高騰します。インスタントラーメンにとっては、小麦、油脂類、包装資材類の値上がりが響きました。
日本列島を震撼させた石油ショックは約半年で終息します。
しかし、世界は深刻な景気の落ち込みに見舞われ、日本の高度成長時代はにわかに低成長時代へと移行していきます。その経験から、日本人は考える消費生活者へと変わり、より厳しい商品選択の目をもつようになるのです。
カップめんの総生産量は、「カップヌードル」が発売された翌年1972(昭和47)年には1億食、1973(昭和48)年には4億食、1974(昭和49)年には7億食、1975(昭和50)年には11億食と、驚異的な伸びを示します。そのなかで特に目立ったのは、「焼きそば」と「和風めん」です。
1974(昭和49)年、恵比寿産業が「エビスカップ焼そば」を出し、引き続きエースコックが「カップ焼きそばバンバン」を出しました。
1975(昭和50)年、まるか食品が初めて四角い容器に入れた「ペヤングソースやきそば」を発売、そして1976(昭和51)年には日清食品の「焼きそばUFO」が登場します。
いわゆるカップ焼きそばは、このいずれもがヒットするという好調ぶりでした。
和風めんでは、1975(昭和50)年に日清食品の「カップヌードル天そば」に続いて、東洋水産の「マルちゃん・きつねうどん」、「マルちゃん・天ぷらそば」(それぞれ「赤いきつね」、「緑のたぬき」の前身)、エースコックの「きつねうどん」、サンヨー食品の「カップスターきつねうどん」、カネボウフーズ「もち入りきつねうどん」、翌年に日清食品の「きつねどん兵衛」などが出揃います。
インスタントラーメン市場が飽和状態となり、飲食業界の資本自由化が進んだ1970(昭和45)年、インスタントラーメンメーカー各社の本格的な海外進出が始まります。
日本企業による海外進出は、国内商社や海外企業をパートナーとして、技術提携、技術供与などさまざまな形で相次ぎ、東南アジア、南米、ヨーロッパ、アフリカと、全世界へと広がりを見せることになります。